耳にタコができるほど聞いていると思いますが、全国の認知症患者数は大変なことになっています。
まあ、認知症予備軍やらMCIやらいろんなタイプができて大変にしているようにも見えますが、それは置いておきましょう。
全国とは言いましたが、認知症への対策は、介護は、世界各国共通で行われていることです。
ドイツを始め、ヨーロッパ方面は医学・精神医学が進んでいるイメージがありますが、認知症ケアに関しても同様です。
その中で、昨今よく聞くのが
- パーソンセンタードケア
- ユマニチュード
ではないでしょうか。
パーソンセンタードケアとは、「その人を中心としたケア」という直訳通り、業務中心ではなく、職員の都合でもなく、認知症の方を一人の人間として尊重した個別的ケアを行いましょうというものです。
そしてユマニチュードとは、その理念のもとにフランスで発祥したケア技法です。
この記事では、数年前から話題になっているユマニチュードとはどんなものなのか、そして、話題になっているこのユマニチュードは本当に日本の介護に必要なものなのかについてお話します。
ユマニチュードとは?
ユマニチュードは、英語表記でHumanitudeと書きます。
Human(ヒューマン)という字の通り、「人間らしさ」という意味の造語です。
理論として提唱されたのは1979年と、案外歴史があります。
発祥であるフランスでは、ケアユマニチュードと言い、「魔法のケア」と言われています。
ユマニチュードが魔法のケアたる所以は、知覚・感情・言語に基づいたケア技法であり、特別な資格や技術は必要ない・・・というところにあるようです。
つまりは、「誰でも学べて、誰でもできる」、その上で効果が高いということですね。
ユマニチュードの技法には4つの柱があります。
具体的には、
- 見る:相手の目線で正面から見る
- 話す:相手の反応がなくても頻繁に声を掛ける
- 触れる:ゆっくり包むように触れる
- 立つ:最低でも1日20分は立ってもらう
確かに、何も特別なことは言ってませんね。
ただ、この4つの柱からなるケア技法は150以上に及びます。
その全てがなんら特別なものではなく、かつ実践的だということです。
そんだけあればある意味特別には感じますけどね。
4つの柱を知ることはユマニチュードの第一歩ですが、柱をマスターするまでは1万歩あるかもしれません。
心を燃やしていきましょう。
ユマニチュードをめぐる批判の正体
ユマニチュードが話題になり始めたのは2015年頃だったと思います。
更に遡ると、初めて実践されたのは2012年です。
「魔法のよう」と形容される理由は、寝たきりの方が立ち上がれるようになったなどの事例があるためでしょう。
しかし、その魔法のようなケアにも一部批判が寄せられています。
批判の的となっているのは、先述した「見る」「話す」「触れる」「立つ」の4つの柱です。
4つの柱は当たり前のこと?
4つの柱は簡単にまとめると、目を見て話す、優しく触れる、適度な運動ということになります。
そう言われると、「んなもんわかってるよ」と言いたくなりますね。
介護福祉士資格の受験勉強された方は特に、対人援助の基本として学ぶというイメージがあるかと思います。
とある人の批判から抜粋すると、「この当たり前のことをできていない人たちが、『ユマニチュードは魔法のケアである』と言っている」とのことです。
認知症ケアの歴史を振り返って
過去の日本における認知症ケアの歴史は、あまり褒められたものではありません。
しかし、介護現場の根底にはやはりパーソンセンタードケアが根付いていて、それを理論として知っていようがいまいが、現代の日本の認知症ケアは「捨てたもんじゃない」と言えます。
ただ、偏見かもしれませんが、日本の認知症ケアが優れているというのは「介護現場」においてのみです。
日本の歴史
介護保険創設以前、国は病院で抱えきれなくなった認知症患者を特養に丸投げしたという歴史があります。
当時は特養でもまだ認知症ケアの方針がなんら定まっていなかったので、ケアの質が高いとは言えませんでした。
介護保険が創設されたのは、そういう質の低さを改善しようという国の狙いがあったと思います。
なんか現場を振り回してる感がありますね。
そうして制度化されたことも要因の一つではありますが、介護現場でケアの質改善に手を挙げる職員はどこにでもいるもので、そういう人たちの想いによって、日本の認知症ケアは改善していきました。
以下も、ある批判から引用したものですが、
そんな介護現場から医療現場をのぞいてみると、あまりはっきり言うと医療従事者の方々に悪いんですが、認知症ケアが充実しているとはお世辞にも言えません。
治療と介護を切り離して考えているうちは、認知症ケアが後回しにされるのは仕方がないのかもしれませんけどね。
海外のケア
その当時から海外の技術を取り入れる動きはあったでしょう。
ヨーロッパは特に医療先進国がありますから、日本から見ても目新しいものが多くあったと思います。
僕も特養介護士時代、オランダだかドイツだかの移乗技術の動画を研修で見た記憶があります。
当時日本の認知症ケアに疑問を持っていた人からすれば、日本にないものを探し求めるのは至極当然です。
ユマニチュードが大きく話題になったのは、そういう人たちが「日本に足りないもの」であると認め、必死に普及活動に勤しんだためでしょう。
「日本に足りない」と感じた現場が、介護現場なのか医療現場なのか、あるいは両方なのかはわかりませんが、過去の医療現場のように認知症ケアがずさんであるところを目の当たりにしたからこその普及活動だったのだと思います。
新しいもの・変化を嫌う日本人
僕自身もよく目の当たりにしていたのですが、外部講師による研修会で、初めて見聞きする技術等を紹介されると、周りから小声で、こんな声が聞こえてきます。
新しい技術の習得に時間を要する(しかも施設・事業所全員)とか、ケアが丁寧になる代わりに時間がかかるとかね。
現場は常にカツカツで仕事してるんです。
「今までこうやってきたんだから」という根拠とは言えない自信も、今までそれが正しいと思っていたことを覆されるのが屈辱だと言っているようなものです。
「必要ない」は「できている」が前提
ユマニチュードなどの海外のケア導入を批判する人の意見で多いのは、「そんなの効果がない」と真っ向否定しているか、否定まではしないが「とっくにやってますよ」と皮肉ってるかのどちらかです。
ユマニチュードの効果がいかほどかは僕も詳しくないので触れませんが、「とっくにやってるよ」という意見については。独りよがりという危険性をはらんでいると思います。
特に介護職員においては、あなた一人ができていれば解決することなんて何一つありません。
介護は(医療もですが)チームケアだというのは紛れもない事実で、
- 5人中1人が優秀で他は平均より能力が低いチーム
- 突出した人はいないが5人とも能力が平均程度のチーム
では、②のチームの方が効率は上です。
何を言いたいかというと、「とっくにやってるよ」派の人が属するチームは、①のチームであるかもしれないということです。
仮にチーム全体が優れていたとしても、他のチームがそうでなければ、「日本の認知症ケアは優れている」と誰が言えるのでしょうか。
「ユマニチュードは取り入れるべき」と言うつもりはありませんが、「必要ない」の前提に「できている」を据えるのは、少し待ってほしいと思います。
まとめ
自信を持って実践することはとても大事です。
ですが、「今までこうやってきた」「それでうまくいってるんだ」という考えは、自信ではなく慢心です。
あまり「海外ではこうやってんだぞ!」って言うのもどうかと思いますが、少なくとも、慢心を持って自分の、ひいてはチームの、さらには「日本のケアがもっと成長するかもしれない」という可能性を捨てるのは、あまりにもったいないです。
学びに投じた時間が無駄になることは絶対にありません。
学んだ結果、もし現状の日本のケアが最上であることがわかったとしたら、それは世界に誇るべきスキルであることが証明できたということです。
入り口から否定する前に、一度学んでみましょう。